シェアハウスやソーシャルアパートメントを多く見てきて、しかも実際に自分でも住んでみて感じたことがあった。
うまくいっているところと失敗しているところの差、半端ないな・・・
腐った残り物がはびこる冷蔵庫
顔を見合わせるのも気まずい人間関係
あれだけ用意してあったコップ、お皿の紛失
いつ落ちたかわからない隅に寄せられたゴミたち
トイレに散らばる吐瀉物の数々
etc...etc.....
一度でもシェアハウスに住んだことがある人ならこれらの状態が容易に想像つくと思う。
外でさえこれらに出会うと気持ち悪いのに、自分の居住スペースがこんな状況になっているというのは、生活の質を著しく下げていると言わざるをえない。
なぜこんな状況になるのだろうか。
共有地(コモンズ)の悲劇
そこでまず、こんな考え方がある。ちょっと聞いて。
①共有地の前提
・みんなが自由に使える
・5匹までの羊なら牧草を食べ尽くすことなく持続可能
・5匹を超えると、牧草を食べ尽し共有地は朽ち果てていく
②羊の放牧
Aさん:2匹
Bさん:2匹
Cさん:1匹
→この状態だと共有地は保たれる。
③Cさんの気持ち
C「なんで俺だけ少ないの?自分だけ損するの嫌だから俺も放すよ?」
→これだと持続可能ではなくなり、共有地は朽ち果てていく。
④みんなのきもち
A「え、5匹までセーフなのにCなにやってんの?あ、でもどうせ朽ち果てていくなら俺もっと放したほうが得だよね」
B「(同上)+どうせAも放すから俺も放そーっと」
C「(同上)+どうせ朽ち果てるんだから一刻も早く放そう」
んで、こうなる。
こうなっちゃうと、あっという間に共有地は朽ち果てて、利用不可能となっていく。
⑤まとめ
つまり、自分の土地(私有地)であれば、羊が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地であれば、他の人が羊を増やして自分が増やさなければ損してしまうため、みんな羊を無尽蔵に増やし続ける結果となり、結果として全員損をする。
これを、共有地(コモンズ)の悲劇といいます。
※より詳しく知りたい人は、ハーディソンさんの共有地の悲劇に関するなんかでも読んでみてください。おもろいです。
シェアハウスの悲劇
上記の「共有地の悲劇」が、うまくいっていないシェアハウスでは起こっている。
つまり、共有スペースでは、自分だけの利益を追い求めたほうが得となり、自分勝手な使い方をするインセンティブが生まれる。
そのため、水道・電熱は自分の快適さのために無尽蔵に利用するし、自らの失敗(ゴミや吐瀉物等)は、隠蔽する。
まー考えてみれば当たり前で、自分自身思い当たることもめっちゃある。
では、どうすれば、シェアハウスの悲劇が起こらない、シェアハウスになることが出来るのだろうか?
シェアハウスの喜劇
結論から言うと、「住民自治」が機能していれば「シェアハウスの悲劇」は起こらない。
「おま、何を当たり前のことを・・・・」
と言われそうですが、いやいや、ちょっと待って。
上記の「共有地の悲劇」は、「個人は市場において直接の利益のみを求める」という、アダム・スミスさんくらいからいわれている資本主義の大前提に依って立っているんですが、「住民自治」はその大前提を崩すというとんでもない理論です。
「住民自治」の細かい理論のところは割愛しますが、要するに共有地への参加者(シェアハウスだと住民)が、自らの共有地の管理に参加し、規則を定め、それに従ってコミュニティを運営することで、「共有地の悲劇」は起こりません。
その理由は、人間が社会的な生き物だからです。
人間は社会的な生き物だから、自分の所属しているコミュニティーの期待は裏切れないし、失うことへの恐怖が非常に大きい。そのため、自分も参加して決まった規則は自分で積極的に守るし、他者に対してもそれ守ることを強く期待します。
※もっと詳しく知りたい人は、オストロムさんの論文とか読んでみてください。この人の先見の明は半端ないです。
したがって、シェアハウス(ソーシャルアパートメント)の運営をする人は、「住民自治」が生まれる仕組み、促進される仕組み、維持される仕組みを準備することで、めちゃくちゃ快適なシェアハウスを創り上げることが出来ます。
と、いろいろ言いましたが、居心地いいシェアハウスがいっぱい出来て、そこに気楽に遊びに行けるといいなーという願いがあるので、みなさんよろしくお願いしますw
そんな感じでおあとがよろしいようで。
<目次>
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